待望のCITPC15周年記念シンポジウムの発表資料が、ようやく公開されたので。
セミナー情報 | 一般社団法人 文字情報技術促進協議会
Ken Lundiさんの報告は、下記。
https://www.unicode.org/irg/docs/n2920-MyBriefHistoryOfStandardization.pdf
CITPC15周年記念シンポジウムは、斯界の第一人者と第一線で戦う戦士のナマの報告が続きいて、初めから最後まで、まさに息つく暇もないほどの密度だった。
それぞれの講演に対して、甲乙をつけることなど不可能なことだし、何の意味もない。
しかし、ぼくにとっては、文化庁国語課の武田さんのお話が、そのような比較の地平とは全く異なるところで、格別の感慨を引き起こした。
淺松絢子さんのこと。
武田さんからすると、前任者の氏原基余司さんのもう一人前の、主任国語調査官ということになる。当日の武田さんのお話だと、武田さんご自身は、淺松さんとは直接の接点はなかった、とのこと。
手元に、氏原さんから頂戴した「国語施策百年史」という大部な書籍がある。平成17年3月31日発行、印刷ぎょうせい。非売品。平成17年といえば、西暦2005年。もう20年も前のものだ。この本劈頭の、当時の文化庁長官河合雅雄氏の序文によると、今は文化審議会国語分科会となっている国語審議会の源流は、明治35年(1902年)の国語調査委員会の発足に遡るとのこと。歴代の委員には、多くの政治家とともに著作や辞書の編纂で現在まで名を残している森鷗外や上田万年らの多くの学者・文豪が名を連ねている。この「国語施策百年史」の索引から、そのような名前を拾い出すだけでも、興味は尽きない。しかし、この百年史の編纂に直接係わった氏原さんを初めとする当時の文化庁国語課の調査官、専門職以外には、この百余年の日本の国語施策を直接縁の下で支えた役所内の専門家の名はない。淺松さんの名もない。
ぼくは、千年紀の節目ごろの淺松さんのお仕事を、本当に間近で目にすることができた。
淺松さんの知遇を得たきっかけを、ぼくは、よく覚えていない。
同じころ知遇を得た、阿辻哲次さんとのことは、よく覚えている。そのころ大修館書店で「しにか」という漢字文化圏についての雑誌の編集長と大漢和辞典の編集責任者を兼任していた森田六朗さんが神保町の小料理屋で引き合わせてくれた。
出会い頭、という感じで、誕生日を聞き合い、阿辻さんが1951年7月13日生まれ、ぼくが7月14日生まれだということが分かり、その場で意気投合した。
そのころ、文化庁は1993年5月を皮切りに毎年「国語施策懇談会」を開催していたが、多分、どこかの「国語施策懇談会」のパネリディスカッションの折に、あ、思い出してきた)阿辻さんがパネリストとして登壇し、それまでに、標準化活動を通して知遇を得ていた豊島正之さんや松岡榮志さんらも、登壇した。そう、このあと、森田さんとやはり森田さんが引き合わせてくれてATOK監修委員会でお世話になっていた日本でただ一人の辞書学者を標榜していた鳥飼浩二さんが誘ってくださり、阿辻さん、森田さん共々淺松さんと一献傾けたの最初だった。
淺松さんは、熱心なカトリック信徒でもあった。ぼくも、ま、あまり敬虔とは言えないけれど、一応カトリック信徒なので、その点でも気脈が通じた。
ぼくが参加した最初の懇談会だったか次の年だったかの、そのころ「東京セブンローズ」で太平洋戦争敗戦直後の米軍による占領下で進められた当用漢字表策定のいきさつを描いた井上ひさしさんの基調講演や、やはりそのころ出版されたイ・ヨンスク著『国語という思想』や河村湊著『海を渡った日本語』など言語と地政学の接面に係わる書物など、日本語と日本語を取り巻く社会の過去・現在と未来の姿について、本当に熱い議論を交わした。
ぼく自身、UTCやSC2の議論に加わるようになったばかりで、符号化文字集合の策定のためには、言語そのものへの理解と、対象となる言語の背後にある社会との係わりについての知見が不可欠だと思い始めたころだった。淺松さん、そして、阿辻さんや鳥飼さん、森田さんも交えた議論から得たものは計り知れない。
淺松さんは、第19期(平成3年〜5年)から国語調査官として運営に係わっていた。そして、淺松さんが主任国語調査官として運営の主軸を担った第21期に、阿辻哲次さんとジャストシステム創業者の浮川和宣さんが、委員として招聘された。多分、阿辻さんが最年少で、浮川さんが二番目の若さだった。第21期最初の会合に、ぼくは、浮川さんに代理出席を命じられた。しかし、国語審議会の委員は役職に対するものではなく、属人的なもので、そもそも代理出席などという仕組みは存在していなかった。淺松さんの下で国語調査官をしていた氏原さんの御尽力で、取材記者に交じって傍聴させていただき、その場をしのぐことが出来た。二回目以降、浮川さんも万難を排して出席するようになり、ぼくは、経産省の国際標準担当者と並んで、傍聴することが許された。
運営方法の是非と、決定された施策の是非はさておき、いわゆる審議会方式での施策決定プロセスの中での、担当専門職員の担う役割は凄まじいものがある。淺松さんや氏原さんのお仕事をそばで拝見していて得た最大の成果はこのことだった。例えば、氏原さんと凸版印刷との労作に、凸版が手がけた印刷物に用いられる漢字の頻度を調査した資料がある。国立国語研究所の高田さん(CITPC副会長)なども、この資料を用いて論文を書いたりしている貴重な資料だ。このような資料を立派に印刷製本して、審議資料として準備する。それだけでも、非常な労力と学術的知見が不可欠なことは想像に難くない。そのような地道な下準備があって初めて、委員たちによる生産的な議論が可能になる。場合によっては、審議会の本会議は、職員が準備した素案を追認するだけに終わることもある。それとても、職員の多大な下準備と委員の側からの満幅の信頼があってのことなのだ。
淺松さんが主任国語調査官を務めた第21期、それも淺松さんが直接担当した敬語に関する小委員会は、しかし、順風満帆とはいかなかった。
当初、小委員会の主査を委嘱された北原保雄さんが、筑波大学の学長に選任され、多忙のため、審議委員そのものを辞することになった。さらに、その後任として主査を委嘱された徳川宗賢氏が急逝されるという不幸が重なった。
淺松さんが、北原さんや徳川氏と周到に進めてきたであろう準備の精華は、結果的に日の目を見ることはなかった。
淺松さんは、そのころ水天宮だったかの、今で言うタワマンの走りのような豪華マンションに一人で住んでいた。すごい飲んべえでね。そのころ樋浦秀樹さんに引きずられてワイン沼に溺て溺死寸前だったぼくも、何度か、ベイエリアで仕入れたワインをぶら下げて、彼女の呑み会に加わる栄に浴した。そんなおり、彼女の口から、国語調査官という仕事の大変さと重要性を聴かされた。そんな場でなければ、決して愚痴をこぼすような人ではなかった。
淺松さんが、文化庁を退いて大学で教鞭をとることになったのと、相前後して、彼女が不治の癌を病んでいることが判明した。赴任先は別府の大学だった。大学側も淺松さんの病を知った上での招聘だった。
病を得てからも、淺松さんとの交誼は続いた。というか、文化庁を離れてから、公私の公の部分がなくなったおかげで、より親しく交わることができるようになった。
淺松さん、阿辻さん、鳥飼さん、森田さん、それにぼくも加わって、熱海と湯河原に旅したことは今でも忘れられない。旅の途中で淺松さんの具合が悪くなったりしたけれど。
彼女に誘われて、マルタ・アルゲリッチが音楽監督を務める別府の音楽祭を聴きにいったこともある。この時も、彼女は体調不良でコンサートに同行することは出来なかった。
彼女が亡くなって、葬儀ミサはカトリック田園調布教会で執り行われた。淺松さんの東京教育大学での先輩だったイエズス会の植栗彌神父が司式した。彼女の親友だった田園調布教会オルガニストの高濱さんが、オルガンの奏楽を担当した。当時、声楽で音大を目指していたぼくの娘が、フォーレのレクイエムのピエ・イエスを歌った。葬儀には氏原さんの姿もあった。
武田さんの講演を拝聴しながら、ぼくの頭の中を、こんな淺松さんの思い出が駆け巡っていた。いえ、講演は上の空じゃなく、ちゃんと聴いていましたよ。
ちかごろ、ぼくは、文字集合ということに大きなこだわりを持つようになっている。文字集合、当用漢字や常用漢字、JIS X 0208やX 0213などなど。大きさの大小はさまざまにあるけれど、ある文字集合を切るということは、その時代時代の言葉の有り様をまるごとすくい取る営為なのではないか。符号化文字集合というのは、そういった文字集合を構成する一つ一つの文字に、排他的なビット列を対応付けるだけのことではないか、と。別に、卑下するわけではないけれど。
最初の国語調査会以来、本当に百有余年にわたって、時代時代の文字集合を切る営為は繰り返されてきた。その営為は常に淺松さんのような専門職によって担われ続けていたに相違ない。