小林 龍生

文字情報技術促進協議会 会長

ちかごろ、「日本語書記技術論」に執心している。といっても、「えっ、それなあに」という人が多いだろう。当たり前。ぼくの造語だもの。

 2013年末に、長く務めたUnicode ConsortiumのDirectorを退任した。IDPFのDirectorなども含め、標準化に係わる仰々しい肩書きがすべてとれて、これといった仕事をしてきたわけでもないけれど、それでも肩の荷が下りたようで、ずいぶんすっきりした気分になった。ISO/IEC 10646(ユニコードに対応する公的規格)に対応する情報処理学会情報規格調査会SC2専門委員会も委員を退任して、エキスパートという気楽な立場になった。還暦も過ぎて、自分の時間も増えて、今までの自分の歩いてきた道筋を振り返る余裕が少し出てきた。 小学館からジャストシステムに転じたのが、1989年。もう四半世紀以上昔のことになる。その間、文字コードだけではなく、ATOK監修委員会を軸とする仮名漢字変換周辺で、スーパーDTP大地に始まり『日本語組版処理の要件』に至る日本語組版処理周辺で、なにがしかの仕事をしてきた、という自負はある。そして、ぼくは心の中では、文字コードも、仮名漢字変換も、組版処理も、日本語を軸として、すべてが相互に関連しているという確信のようなものが、ずっとあった。敢えて言えば、日本語のWriting System。 ところが、ググってみても、Unicode StandardにあるWriting Systemの章を見ても、多くは、Writing SystemをScripting Systemとほぼ同じ意味で使っている。即ち、書字体系。う〜ん、違うんだよなあ。 そんなことを考えていたら、偶然、アマゾンで小松英雄の『日本語書記史原論』(笠間書房)を見つけた。一読して目から鱗が落ちた。

「すべての書記は情報の蓄蔵である」 “All writing is information storage”
天啓だった。

 そうだ、ぼくが生きてきたこの四半世紀は、日本語の書記体系がデジタル装置/ネットワーク環境に置き換えられていくという、大きな歴史的転換期だったのだ。 そのように合点がいくと、自分が辿ってきたさまざまな風景が全く違って見えてくる。それとともに、記憶の風景の中で、欠けているところが気になってくる。観光旅行から帰ってきてから、見逃した名所を知るといった気分だ。 もしかしたら、この記憶を辿る旅を通して、ささやかながらこの四半世紀の間に情報通信技術が立ち向かってきた日本語の姿がすこしは浮かび上がってくるかも知れない。 こんなことを考えながら、2011年に上梓した『ユニコード戦記』(東京電機大学出版局)の続編のようなスタイルで、『EPUB戦記』(慶應義塾大学出版会、近刊)を書いた。その過程で、いろいろなことを考えた。 例えばルビ。

 

 ルビの語源は、活字の大きさを宝石の名前で表すイギリスの印刷職人のジャーゴンだと言われているが、日本語では、振り仮名と呼んだり、読み仮名と呼んだりしている。ルビの機能に対応するユニコードの符号はInter linear Annotation Characters(行間注釈文字)という訳の分からない名前になっている。 ルビは、普通は難読熟語の脇に振って、読み方を示すために用いることが多いようだが、歌舞伎の外題などでは、漢語としてそのまま音読みに出来るものに、わざとほとんど意訳としか思われないような大和言葉を振ったりしている。今野真二さんが書いた『振仮名の歴史』(集英社新書)には、サザンオールスターズの歌詞カードに使われたルビの卓抜な例が出てくる。 EPUB3策定の折に、拗音や促音を表す小書きの仮名の扱いについて、可読性を優先して小書きの仮名を用いないか、視覚障害者への配慮を優先して、自動音読機能のために拗促音をそのまま小書きの仮名で書き表すかが、大きな争点となったことは記憶に新しい。 ぼく自身は、わりとちゃらんぽらんで、電子書籍にしたりWeb文書として読んだりするなら、読み方を示すものなら対応する親文字の後に丸括弧で括って付け加えたって一向に構わないし、ある種の注釈として用いられるものなら、カーソルオンに伴うポップアップウィンドーで見せたっていいと思っている。 要は、ルビという日本語書記体系の中で伝統的に用いられてきたルビという表現様式が、実際にはどのような機能を担ってきたかを、改めて解きほぐして、現代のデジタル技術やらネットワーク環境やらを前提とすると、どのような表現形態が可能になるかということを、虚心坦懐、もう一度考え直してみようよ、というのが「日本語書記技術論」の企みなのだ。

 

 ところで。事務局長の田丸健三郎さんは、「文字情報技術促進協議会」が、文字符号の問題やフォントの問題だけを対象とすることに満足していないらしい。「文字で表現されるもの全てが対象ですよ」とこともなげに言う。たぶん、禁則処理や行間設定などの組版規則やタイポグラフィーなども、文字情報技術の一部、ということになるのだろう。協議会の間口が拡がると、ぼくが考えている日本語書記技術論も、その対象に含まれてもおかしくはない。

 本協議会の副会長を務めている村田真(悪友には敬称は付かない)は、構造化文書(先日、ぼくは好悪増加文書などという最高の誤変換をやらかしたけれど)の第一人者らしい。 その村田真が、『EPUB戦記』の草稿を読んで、Twitterの DMで、悪態をついてきた。

DTPの人 行長から独立したテキストなんてあり得ない。
活版の人 活字を一文字ずつ拾ってこそ魂が入るんだ。キーボードを叩いて何が文化だ。

 木版の人 文脈から独立した文字なんてあり得ない。場所によって、形が違うのが当然だ。続け字がないなんて信じられない。
肉筆の人 書いた文字を別の人が版木に掘り起こすだって?そんなんで思い入れが伝わるわけがないだろう。
音声の人 文字なんて信じられるか。人の声でなければ思い入れが伝わるわけがない。

読む側にとっては、書く側の思い入れに触れることがすべてではない。多くの人が効率よく受容できることはとても大事なことだ。多くの人が効率よく受容できてはじめて宗教改革も黒人解放運動も出来る。
構造化文書だけがアクセシビリティを提供できる技術だ。古い技術の使い手が持っている思い入れが無意味とは言わないが、アクセシビリティを妨げるという面は確実にある。

 

ぼくの反応。

 

おもしろい。で、ぼくの関心は、情緒的にしか語られてこなかった「書く側の思い入れ」をデジタル化の過程で取りこぼされるものとすくい取られるものとの界面で、機能性(広い意味での)として浮かび上がらせること。 たとえば、複数のCSS表現の差異が、どのような情報を担っているか、とかね。


さらに、村田真 Unicode文字列にして、構造化文書にしたときに抜け落ちるものは、みんな要らない。古い技術に拘る人の過剰なこだわり(思い入れ)に過ぎないというのも一つの立場です。
さらに、ぼくの反応 初期ヴィットゲンシュタインの立場に近い。「文書にしたときに抜け落ちるもの」は、情報化の対象として語ることが出来ない。語ることが出来ないことがらについては、沈黙するしかない。 後期ヴィットゲンシュタインは、語ることが出来ないことがらを何とかしてすくい取ろうとあがいて、『哲学的探究』で言語ゲームの概念に逢着した。

 

村田真の悪態は絶品だねえ。

 

 このやりとりをやりながら、山本太郎さんなら、何と反応するだろう、と想像して、思わずニンマリしてしまった。今回副会長に就任したアドビの山本太郎さんは、日本タイポグラフィー学会の会長も務めている斯界の第一人者だ。村田真と山本太郎さんのバトルトークは面白いだろうな。 元富士通の社員で、JSC2の委員長をしていた関口正裕さんなど、青空文庫から落としてきた夏目漱石の小説を丸ゴシック体横組で読んだりしていたわけで、さすがのぼくも気が狂いそうになるが、村田真なんか全然平気なんだろうな。 そもそも、フォントを選択することで、文書にどのような情報が付加されることになるのだろう。きちんと考えたことなどなかった。


 そういえば、ずっと昔、1996年のこと、畏友安斎利洋さんと中村理恵子さんが、中国西安在住の現代書家、高峡さんと、「北京連画」というコラボレーションをやったことがある。 http://renga.com/archives/beijing/index.htm この一連の作品を見て、ぼくは、「ロクもしくは我が家に棲む雑種犬について」という雑文を書いた。 http://renga.com/archives/beijing/roku.htm 村田真は、何と言うだろう。山本太郎さんは、何と言うだろう。 いっそのこと、安斎さんと中村さんも呼んできて、ワイワイ議論したら面白いだろうな。

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