「ユニコード戦記」は、2010年5月の「樋浦秀樹さんを送る会」の描写で終わっている。ヒデキがなくなったのが、2010年4月7日。晩年のというか急逝する直前のヒデキは、必ずしも順風満帆というわけではなかった。スコット・マクネリーにあこがれて、富士通を退社して飛び込んだサン・マイクロシステムズが、ヒデキが力を入れていたオープンソースの世界から退場し、そのタイミングで浮川夫妻に招かれて、ジャストシステムに入社していた。しかし、ヒデキが技術面での指揮を執っていたxfyは、営業面での欧米への無謀とも言える積極展開があだとなって、ジャストシステムの経営基盤を揺るがす状況になっていた。浮川夫妻は、最終的に経営権を委譲し、我が子のように育ててきたジャストシステムと社員をキーエンスに委ねる決断を下した。キーエンスへの株式譲渡が2009年の4月、取締役退任と新会社メタモジ設立が2009年10月。それに先立つ2009年9月、ぼくも、ジャストシステム退社後も続いていた業務委託契約(デジタル文化研究所所長職と国際標準化活動)の打ち切りを通告された。この前後の「ユニコード戦記」の記述
2009年9月、ジャストシステムからの契約打ち切りの通告。
ジャストシステムからの契約打ち切りの通告を受け、ぼくは、インディペンデントになってからも続けていたジャストシステムデジタル文化研究所の所長を退任した。デジ研という組織(もともと、メンバーは、ぼくとアシスタントの斯波綾子さんだけだったけれど)も廃止された。
2010年10月、浮川夫妻、ジャストシステム取締役を退任。
浮川夫妻がジャストシステム取締役を退任。同時に、メタモジ社を設立。
ジャストシステムからの禄を断たれ、路頭に迷いかけたぼくに、救いの手をさしのべてくれたのは、意外にも「一太郎」やATOKで、OOXMLやODFで敵どうしとして戦ってきたマイクロソフトCTO(当時)の加治佐俊一さんだった。
「何か日本語の将来に役立つことをやりましょう」
これだけの条件で、ぼくとコンサルタント契約を結んでくれた。あとは、情報処理推進機構(IPA)の文字情報基盤事業の手伝いで糊口をしのぐことができた。
(「EPUB戦記」p170、一部改)
「EPUB戦記」でのぼくの物語は、事実上、ここで終わっている。あとは、JLreqの第2版の発行と、紙版の「日本語組版処理の要件」の発行、W3CにおけるRichard Ishidaによる様々なreqシリーズへの展開などが、簡単に触れられているだけだ。
一方、「ユニコード戦記」の方は、といえば、これは、2010年5月28日に西麻布のイタリアン・レストラン《エスペリア》で開かれた「樋浦秀樹さんを送る会」の記述が最後。
あとがきで触れた台北の鼎泰豊での村田真や木田泰夫さんとのエピソードが、2010年10 月7日。
こうして見てくると、ぼくの個人史の中で、2010年は、随分と大きな区切りの年だった。
大きく区切ると、
1976年〜1989年:小学館編集者
1989年〜2000年:ジャストシステム社員
2000年〜2010年:インディペンデント(ジャストシステムデジタル文化研究所所長)
2010年〜:インディペンデント(マイクロソフトコンサルタントとCITPCへの係わり)
といったことかしらね。こうして列挙してみると、何のことはない、今となっては2010年以降のCITPCとの係わりが一番長くなってしまった。
2025年12月のCITPC結成15周年に向けて、2010年を起点として、今に至るまでぼくの活動の中軸となってきた文字情報技術促進協議会(前身のIVS技術促進協議会も含む)と、文字情報基盤整備事業について、あくまでもぼく個人の視点からではあるけれど、記録を留めておこう。おそらく、技術的な内容よりも、係わりのあった人々との思い出が中心になると思うけれど。
加治佐さんとの面談
ジャストシステムから雇い止めを宣告され、ぼくは、マジで路頭に迷いそうになった。2010年といえば、ぼくはまだ50代の最後。普通に会社員をやっていれば、定年まで何年かを残す年代だ。ジャストシステムを退社して、有限会社スコレックスを設立し、インディペンデントのITコンサルタントを標榜してはいたが、じつのところ、ジャストシステムとのコンサルタント契約、それも実態は国際標準化活動に対するパトロネージュが主な生活の糧だった。他にもスポットでの調査の仕事が無いわけではなかったが、生活を支えるにはほど遠いものだった。救いと言えば、3人の子供たちがすでに独立してそれぞれ自分たちの家庭を持っていたことだろうか。
さて、これからの生活をどうしようか、と思い悩んでいたとき、意外な人が声を掛けてくれた。マイクロソフトの阿南さん。
阿南康宏さん
阿南さんとは、JSC2での活動を通して、旧知の仲だった。
今調べてみると、JIS X 0213:2000の符号化文字集合調査研究委員会第2分科会(WG2)の委員名簿に、マイクロソフトプロダクトディベロップメントリミテッド所属として、その名がある。それも、「(平成10年11月から)」という付記とともに。それまでは、「松沢高志さん(平成9年4月まで)」の名があり、JIS X 0208:1997の委員名簿にも、松沢さんの名前があるので、このころ、松沢さんから引き継ぐ形で、符号化文字集合の世界に入ってきたのではないかと思われる。
あれれ、「ユニコード戦記」の人名索引には、阿南さんの名前がない。これ、浦山さん(当時東京電機大学出版局での編集担当)のミスだな、きっと。でも、第6章 JIS X 0213:2004 1 表外漢字字体表とJIS喚起規格の整合の節、符号化文字集合(JCS)調査研究委員会第1回委員会の委員会構成のところに、阿南さんの名前もある。この会合が開かれたのは、2001年5月。
ともあれ、このころには、阿南さんは、外資系ITベンダーの一方の雄であるマイクロソフトにあって、開発陣の最前線で日本語関連の符号化文字集合標準化活動に参画してきた。
ヒデキにとって、阿南さんはちょっと不思議な存在だった。
そもそも、ヒデキからすると、マイクロソフトはあらゆる面で不倶戴天の敵。彼が属していたサンマイクロのUnix路線に対するWindows、Javaに対するC++、そして、後のODFとOOXML等々。ところが、IRGのミーティングでは、ヒデキはUS代表団の一員であるにもかかわらず、なぜか昼食の折には、日本代表団のメンバーにすり寄ってきて、一緒に日本料理店やラーメン屋に出向いたりする。そして、阿南さんとも親しく雑談している。
ヒデキは、ワインに凝っていた。それも、半端なく。自宅にもワインセラーがあったが、置ききれずに、空調の整ったサンマイクロのサーバールームに、何本ものワインをこっそり保管していた。あるとき、ヒデキが知らない間に、サーバールームの引っ越しが挙行され、持ち主不明のまま貴重なワインが没収されてしまう、という悲劇が起こったり。
ぼくも、ヒデキに洗脳されて、ある時期、結構ワイン沼にはまった。
二人で、何度もナパバレーに行った。ナパの多くのワイナリーでプレミアムワインのテイスティングも経験した。そのうち、阿南さんも、そんなナパツアーに参加するようになった。運転はもっぱら阿南さん。二人で、ワインが6本入るおそろいのトートバッグを買い込み、会議でベイエリアに行くたびに、ワインを買い込んだりした。仕事の関係で阿南さんが参加できないときは、バッグを借りていって、都合2つのバッグに12本もの(実はそれ以上)ワインを詰め込んで帰ってきた。阿南さんには、バッグを借りたお礼に、お気に入りのワインを1本進呈した。
ヒデキが日本に来た折には、そんなワインの何本かを持ち込んで、ヒデキが定宿にしていたお茶の水のホテル近くのイタリアンの店で、気の置けない仲間たちと盛り上がったものだった。その場にも、阿南さんは、いた。
そんな阿南さんが、ジャストシステムから雇い止めを喰らったぼくに、メールをくれた。
「一度、MSのCTO、加治佐とお会いになりませんか」
加治佐さん
加治佐さんは、マイクロソフトジャパンのCTOとして、その勇名はとどろいていた。浮川夫妻の口からも度々、その名前が語られていた。ぼくがジャストシステムに入社したころで言えば、東芝の溝口氏やソフトバンクの孫氏など、当時のパソコン業界を先頭に立って引っ張っていたストラテジストの一人、といった印象だった。いわば、雲の上の人。加治佐さんご本人が、ShiftJISそのものをデザインしたことを知ったのは、知遇を得て、親しく交わるようになってからのこと。
その加治佐さんが、自ら乗り込んできたのが、国際標準化活動の中での、ODFとOOXMLの覇権争い。舞台は、IOS/IEC JTC1/SC34。委細は、ぼくの理解と記憶の彼方だが、雑駁に言えば、ヒデキや当時IBMの木戸彰夫さんらが主導していたオープンソースグループのODF対マイクロソフトグループのOOXML。グローバルなデジタル通信ネットワークの世界では、OSIのモデルを押さえて、TCP/IPが覇権を取った。文字コードの世界では、UCSとユニコードが覇権を取った。そして、構造化文書の世界でのHTML。こうした流れの中で、ワードプロセッサーやスプレッドシートなどのビジネスドキュメントの公的なフォーマット規格をどうするか。各社が次の時代のビジネスモデルを構築していく上でも、まさに雌雄を決する大きな戦いだった。
ヒデキは、サンマイクロの大看板を背負って、陣頭に立って戦っていた。そんな戦場において、JTC1における日本のナショナルボディである情報規格調査会がどちらの側に付くか、それが問題だった。日本マイクロソフトは、加治佐さんの下に、国際標準化活動の世界ではまさに百戦錬磨の村田真を迎えて、いわば柔と剛の絶妙なコンビネーションで挑んできた。
傍から見ていても、まさに血を血で洗うような激戦が繰り広げられた。
結果は。
短期的には、双方の痛み分け。ODFもOOXMLもISO/IECの正規の国際規格として発行された。
中長期的には、OOXMLの一人勝ち。ヒデキは、サンマイクロを去り、サンマイクロそのものも消滅した。その後、ヒデキはジャストシステムに移り、xfyによる世界制覇という浮川夫妻の見果てぬ夢とともに果てることになる。
ユニコード戦記の人名索引には、加治佐さんの名前もある。該当個所は、こんな感じ。
そして、ヒデキは日本マイクロソフトの最高技術責任者の加治佐俊一さんとも食事をした。加治佐さんがマイクロソフトとしてIVS技術を目本で強力に推進する決意を話すと、ヒデキはとてもうれしそうだった。 「今なら、マイクロソフトといっしょに仕事ができそうですね」このテーブルが、今まで何かにつけて対峙しつづけてきたヒデキの、マイクロソフトとの和解の場となった。
(「ユニコード戦記」p.240)
今、ネットで調べてみると、ODFの制定は、2006年5月、OOXMLの制定は、2008年11月。
ヒデキの最後の来日は、2010年の2月だった。ぼく自身、記憶は曖昧なのだが、この時点で加治佐さんとぼくとは、全く知らぬ仲、というわけではなかったようだ。
ともあれ、ぼくがジャストシステムから雇い止めの宣告を受けたことを知った阿南さんが、繋いでくれて、ぼくは加治佐さんのオフィス近くの喫茶店で、加治佐さんと話をした。
委細は覚えていない。「EPUB戦記」の記述によると。
ジャストシステムからの禄を断たれ、路頭に迷いかけたぼくに、救いの手をさしのべてくれたのは、意外にも一太郎やATOKで、OOXMLやODFで敵どうしとして戦ってきたマイクロソフトCTOだった加治佐俊一さんだった。 何か目本語の将来に役立っことをやりましょう」これだけの条件で、ほくとコンサルタント契約を結んでくれた。あとは、情報処理推進機構(IPAの文字情報基盤事業の手伝いで糊口をしのぐことができた。(P170)
加治佐さんは、そのころ、米国本社での最前線の実装部隊を離れて、日本に召喚されていた田丸健三郎さんに、IVSとIVDの日本における何らかの普及活動を、ぼくとともに企画立案することを指示してくれた。こうして、田丸さんとのいわば二人三脚での活動が始まった。
一方の阿南さん。マイクロソフトジャパンの中で、着実にキャリアアップしていたのだと思う。
あるとき、突然
「もう、部下たちのベビーシッティングには飽き飽きしたんですよね」
と、軽やかに宣言して、マイクロソフトを離れ、それまで着実に積み上げていた中国語のスキルをさらに高め、日中間のIT分野での橋渡しに自分自身のビジネスチャンスを拓くべく、勇躍中国に渡っていった。
ぼくの手元には、2012年4月に発行された「日本語組版処理の要件」(東京電機大学出版局)を記念して村田真がエディターたちのために作ってくれたプレートの、阿南さんの分がまだ残っている。
こうして、ぼくは、ヒデキから委ねられた文字情報技術の普及促進を目指す新しい戦場に赴くこととなった。